| 番号 | タイトル | 著者 | 掲載誌 | 日記 |
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| No.88 | ピエタ II | 榛野なな恵 | YoungYou Comics | 2000.7.26 |
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「ピエタ」というのはイタリア語で、慈愛という意味なのだそうだ。 でも、ピエタと聞いてすぐに思い出すのは、やっぱり、ミケランジェロのピエタ像。母マリアが十字架からおろされた息子イエスをだきしめる、あの有名な彫刻だ。 昔、イタリアで実物を見た。思ったよりも小さなものだった。ああ、これがあのピエタか、と、わりと軽い気持で眺めた覚えがある。 今になって、子供を持つ母の身になり、マリアの表情のことを考えてしまう。彼女にとってイエスは息子だった。なによりも、それが第一だったんだろうなぁ、だから、きっと現実のマリアは「ピエタ」のようではなかったと思う。「ピエタ」は想像上の理想的な母性。「ピエタ」を望む人は、母性の持つ闇の部分を完璧なまでに見ようとせず、マリアの人としての部分を決して認めようとしないだろうから。でもね、息子をなくした母親があんなに静かであろうはずはないもの。 さて、榛野さんがタイトルに「ピエタ」を持ってきた理由は何なのだろうと考えると、この作品全体を流れるあるトーンに気がつく。それは、母性に似て非なるもの、静かで絶えることのない受容の感覚。 実際の母性には奪い支配する力がつきものなのに、この作品にはその部分が出てこない。(理央の継母?彼女は佐保子と対立するもうひとつの母性なのだろうか?それにしては弱すぎる)。だから、ああ、これは「ピエタ」なのだなぁと。 この現実の世界に、どうしても馴染めず、生きていきづらい子供たちが確かにいる。その子供たちを守り育てようとする祈りのような力がどこかに本当にあるのかもしれない。なぜなら、そういった子供たちのなかには次代を紡ぐべき種が含まれているから。 とても美しいイメージ。でも、なぜか違和感を禁じえない。 昨今のざらざらした空気に、弱い鍛えられていない自我の皮膚が曝されて、痛いと泣き喚いている子供たち。自分が変わる必要を認めず、誰かになんとかしろと要求する声は高く・・・。あまりにもあまったれすぎちゃあいないだろうか。 佐保子や理央に、「ピエタ」に、自分を引きあてて、奇跡を待つだけになってしまう子供たちをどうやって救えるというのだろう?だって、奇跡は来ないのだもの。誰にも起こりえないからこそ、奇跡は奇跡と呼ばれるのだもの。 今、この時代に、この物語は望まれ、受け入れられ、多くの心を鎮めるのだろうけれど、それだけに、この物語が世に拡がっていくことを恐れずにはいられない。 現実の人間は、佐保子や理央ほどに自分自身に正直でも真摯でもなく、自身勝手に都合のよい物語を望んでしまうものだ。 しかし、奇跡はそれに値するものにしか訪れない。そしてそれは神が無慈悲だからではないのだ。 ・・・否定的なことを書いたが、紫野個人はこの作品を名作だと思う。大事に心のなかにいつまでも留めておくだろう。愛しているといっていい。おそらく、この作品を読んだのが、思春期のまっただなかの少年少女であるのならば、この作品は持続低音となって、そのもののその後の人生を守ることだろう。 だが、この作品は『YOUNG YOU』誌に掲載され、『Youg You Comics』として発行されている。ならば、思春期を越えた人たちに対して、もっと違った筋の通しかたがあるのではないか?と思わずにはいられないのだ。 できるならば、佐保子と理央の10年後、20年後を、年月を経た、彼女たちなりの、しぶとさとしたたかさを描いてくれることを切に願う。
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